2006.11.26

「駒場祭なんて東大生のオナニーなんだよ!」

と、喝破したのは後輩の環さんですが、ひとくちにオナニーといっても個人差があるわけでして、中には芸術や職人技と呼べるほどクオリティの高いオナニーがあるかもしれないと思い、見物をかねて久しぶりに大学に遊びに行ってきました。

で、今回いちばんの思い出になったのは、ゲロです。

時代錯誤社の部室に行ったら、ゲロ以下の臭いがプンプンする闇鍋をむりやり食わされました。何なんだこのサークルは。ちなみに、原料は以下のとおり。

豆乳スープ+さばカレー+ミートソース+メイプルシロップ+白菜+ぶり+豆腐+納豆+コーヒー豆+豚レバー+チーズ+チョコレート(+ほか5種類くらい)

読んでいる皆さんは、食材を一つずつ見ているので食えそうに思えるかもしれませんが、実際にこいつらを一つの鍋に入れて煮込んでしまったら、真の地獄絵図です。まず何より、

臭いがすっぱい!

すっぱいものは入っていないはずなのに、臭いがすっぱいよ! いったい何の化学反応が起きてしまったのか、すっぱさと、しょっぱさと、甘さが混在するという、料理にあるまじき異臭が発生してしまいました。「ゲロ以下の臭いがプンプンするぜ!」という表現が誇張なしに当てはまる状況に、生きている内に遭遇しようとは。しかも。

「はい。これ、○○さんの分です」

く、食わせるのか! こいつら、OBにも容赦なしにこのゲロを食わせるというのかッ! 見ためもニオイも正真正銘、ゲロ以下のこの汚物をッ! しかも、納豆が3パックも入ったせいか、箸で持ち上げるとねばっこく糸を引くじゃないですか。無理無理無理無理。

と、あまり書きすぎると、現役社員さんがネタにする余地がなくなってしまうので、ここではぼくの結論だけ書いておきましょう。「目を閉じて、鼻をつまんで口に入れたら、盛られた量の半分くらいは処理できました」。以上。続きは『恒河沙』最新号でご覧ください。

おまけ。

現在、mixiの「東京大学」コミュニティでは、

  劇団綺畸2006年度冬公演『戦場のボーイズラ

というイベントが告知されています。最後の文字の切れ方が気になる方は、リンク先をのぞいてみてください。期待に胸を膨らませながらクリックすると……。

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2006.03.16

まさかの卒業失敗

なんてこともなく、無事に卒業できることになりました。タイトルはどう見ても釣りです。本当にありがとうございました。いや、mixiで知り合いがこういう釣りを何回もやってたから(BUのM永さん、同期のひる君など)、ぼくも一度くらいやってみたかったんですよ。

……正直スマンかった。ムシャクシャしてやった。今では反省している。

念のため申し添えておくと、研究室から卒業式の案内メールがとどいた上、教務課まで行って卒業者リストも確かめたので、まちがいありません。刑事事件でも起こさないかぎり卒業できます。ご心配をおかけしました。

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2006.02.17

東大生と会話する際に気をつけるべきこと

環さんのところで「沖縄県民と会話する際に気をつけるべきこと」というネタが語られていたので、触発されて東大生版をつくってみました。でも、完成度がイマイチなので、東大生の皆さん、よろしければ補完をお願いします。

■東大生と会話する際に気をつけるべきこと

「東大? いいなー」などと軽々しく言わないこと。このように言われると東大生は「だったらテメーも入ればよかっただろ」などと内心感じる。褒めるにしても、「教育環境が整っているのがいい」「授業料が安いのがいい」「キャンパスに緑が多いのがいい」と、何かに関連づけて褒めること。

ただ、頭の良さを褒めるのはよくない。このような「東大生=頭がいいだけの世間知らず」的発言に、東大生は殺意を感じる。カチンときた東大生から「キミの言っていることは三点で間違っている。第一点は……」などと論文口調で2時間以上の反論を返されても文句は言えない。

東大紛争の話はしないこと。ほとんどの学生にとって生まれる前の事件なので、話を振られても「昔あったみたいですね」としか返すことができない。今の東大生にとって左翼運動は旧時代の遺物である。

東大出身の有名人の話も軽々しくしないこと。基本的に会ったことなどないので、「どう思う?」と聞かれても一般論しか語ることはできない。「知り合いも東大に通ってるよ」も同様。会ったことなどまずないので「だから何?」としか思えない。

また、相手の就職先を尋ねる際には、「官僚」「役人」といった答えを期待した聞き方しないこと。法曹、企業、研究職などをめざす学生は、この種の話を一番嫌がる。「オタク率が高そう」は絶対に禁句。「やっぱりアキバ系のイメージで見られているのか」と、東大生は深く傷ついてしまう。

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2006.02.16

文学部における教授の権力

卒論の口述試問で、友人が教授とこんなやりとりをしたそうです。

学生「先生、卒論とは関係ないんですけど、ちょっと相談していいですか」
教授「どうぞ?」
学生「実はオレ、卒業単位が足りないかもしれないんですけど」
教授「あ、大丈夫。過去は変えられますから」
学生「え、過去?」
教授「単位が足りないってことは、不可とか未受験の単位があるんですよね」
学生「はい」
教授「じゃあ、そういうのこっちで優とか良に変えておきますから」
学生「えっ!」
教授「とりあえず、卒論を出したなら単位の心配はしなくていいですよ」

嘘のような本当の話です。うちの文学部の教授は、教務課に対してえらく権力が強いので、1年前の単位でも余裕で「不可→優」みたいに書き換えできてしまう、と先輩が言っていたのを思い出しました。駒場の教養学部とかじゃありえませんね。

ちなみにその後、口述試問の打ち上げの飲み会で「過去は変えられます」という教授のモノマネが大流行したことは言うまでもありません。

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2006.01.25

東大生vs片山さつき

という企画に参加してきました。くわしい内容については、来週月曜日に発売される雑誌『AERA』をご覧ください。とりあえず、片山さんはツンデレですね。間違いありません。

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2006.01.10

卒業、できるかな?

時代錯誤社の原稿みたいに締切をぶっちぎることもなく、きわめて平穏に卒業論文が提出できました。あとは論文の審査と口述試問を切り抜けて、ついでにゼミの教官からも単位をいただければ、晴れて大学を卒業できることになります。本当にありがとうございました。

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2005.10.01

卒論に未だ結論は見えず

先刻は起きたばかりでワケワカメな文章を載せてしまった。今では反省している。というわけで、もう少しマトモな文章を書いてみよう。

近頃、ぼくは「ヒトクローン肯定論」というテーマで卒論の原案をつくっている。30字くらいで要約すると「技術的な問題さえ解決できれば、ヒトクローンを禁止する倫理的根拠はない」というもの。

「えっ? そうなの?」と驚かれるかもしれないけど、調べた限りでは、倫理学者サイドからの有力なヒトクローン反対論は存在しない。有名どころで例をあげると、加藤尚武さんは「安全性という理由以外で禁止の目的を明示することはきわめて困難」と言っているし、岡本裕一朗さんも「反対する論拠はない」と断言しているし、ほかの方々の反対論も、要約すると「気持ち悪い」「自然な感じがしない」といった検討に値しないような印象論が9割を占めている(残り1割はここでは秘密。卒論でネタにさせてもらうので)。

あと、いちいち相手にするつもりはないけど、「クローンの大量生産で軍隊がつくられる」「ヒトラーみたいな独裁者のクローンがつくられる」「クローンが増えると街中の人が同じ顔になって個性がなくなる」「クローン技術は神を演じることになるから云々(以下略)」といった愚論を信じている人が、とくに小説家とか新聞記者に多かった、というのは意外な発見だった。想像力の欠如というか、論理的思考力の欠落というか、大丈夫かねぇ? 小説家とか新聞記者ってそういうの一番大事じゃないの?

余念を払って、冷静に考えればわかると思う。「ヒトのクローンを造ってはいけない」という主張には、技術的安全性という問題を除けば、合理的な根拠はない。それに、安全性を理由にしてクローン技術を否定するのは単なる問題の先送りであって、本質的な批判じゃない。多くの倫理学者が言っていることだけど、それは「もしクローン技術が限りなく完全ならば(あるいは今の臓器移植並みの安全性が確保されるならば)容認されるのか」という問題に答えていないからだ。そして、現段階で安全でないからといって基礎研究からすべて禁止するのは、将来的な利益の可能性を考えると合理的ではない。

さて。こういう技術肯定論みたいなことを書くと、一部からは確実に、「技術の暴走を抑えるのが倫理の役割じゃないのか!」「貴様は技術者の犬か!」といった批判が来るだろう。でも、ぼくはちょっとそれは違うと思う。

話はいったん飛ぶけど、ぼくがこのテーマで卒論を書こうと思ったきっかけのひとつは、宗教学の講義で知ったとある事実だった。「ルネサンス以降、カトリック教会と科学者が論争を起こした場合、長期的に見れば、例外なく科学者側が勝利してきました」。鶴岡教授による、宗教哲学の講義でのことだ。「例外なく」ということばに、ぼくはかなり驚いたけど、教授は噛んで含めるように繰り返した。「ただの一つも例外はありません。天文学で、物理学で、植物学で、地質学で、人類学で、ありとあらゆる分野で、100戦やったら科学の側が100勝しました。完全に無敗です」と。当然といえば、当然の結果ではある。最終的な根拠を聖書に頼るしかない教会側と、最新の観測と実験をもちだしてくる科学者側とでは、事実の論争では勝負にならない。

その様子が、ぼくには、今のクローン技術とその反対者たちの構図に重なって見えて仕方がないのだ。もちろん、全く同じ構図だなんて言うつもりはない(現代では技術が社会に与える影響が桁違いに大きくなっている、という点は後述する)。ただ、ぼくたちが正しいと信じている倫理という価値観が、聖書に頼るしかなかったカトリック教会の価値観と、いったい何がどれくらい違うのか、という疑問がぼくにはある。「それは倫理的にダメだから」といってクローン技術批判に走る人たちの態度は、「それは聖書的にダメだから」といって科学批判に走ったカトリック教会の態度とどこか違うのだろうか。

後述するといった点について。繰り返しになるけど、ルネサンス期と現代でいちばん事情が違うのは、技術が社会に与える影響が桁違いに大きい、というところだろう。けど、影響としてベネフィット(利益)のほうが大きいのか、リスク(危険性)のほうが大きいのか、その比較衡量は慎重にやらなきゃいけない(とくに、技術批判をする人はリスクだけを過大評価する傾向にあるので)。

一例として、中西準子さんは『環境リスク論』という本で、水銀法禁止について以下のような見解を示している。

1970年代、水銀法(カセイソーダの生産方法のひとつで、電気分解のための電極に水銀を使うもの)は、第三・第四水俣病を発生させる疑いが持たれたために全廃され、イオン交換法と隔膜法に製法転換された。これにより、日本全国で1年間に24トンの水銀漏れを減らすために、年間624億円の費用がかかった。一方で、この製法転換は年間19人の知覚障害を減少させることに成功したと推測される。これらの事実を比較すると、水銀法の禁止は、知覚障害発症を1人減らすために32.8億円の巨費を投じた無茶な政策であったと結論できる。逆に言えば、水銀法はリスク・ベネフィット比較からすると合理的な生産技術だった。

以上が中西さんの議論だが、人ひとりの知覚障害と32.8億円、どちらが重いのか、ぼくは正直いって判断に迷う。ただ、水銀中毒という最悪に近い公害の場合でもこの程度で留まっている、ということは重要だと思う。おそらく、金額換算で考えるならば、ほとんどの技術は(たとえ人を殺すリスクを含んでいても、ベネフィットがそれを上回るために)容認されるだろう。水銀に限らず、農薬もそうだし、自動車もそうだし、飛行機もそうだし、原発もそうだ。——不愉快だ、と思われるかもしれない。

ぼくも、似たような感覚を今までにいくつか経験した。戦争は社会の利益になるというアイアンマウンテン報告。多数のためなら無辜の一人を殺してもいいとするサバイバル・ロッタリー。そして、人の命を数値換算してリスク・ベネフィットを比較する環境リスク論。合理性を突き詰めた論理は、なぜかいつも反倫理的な結論に行きつく。どれも論理展開は間違っていないはずなのに、なぜか人を不愉快にする。本音を言えば、自分で考えているヒトクローン肯定論にだって、ぼくは少しだけ生理的な嫌悪感を抱いている。

なぜだろう。クローン技術も、ベネフィットをあげれば、1. 遺伝子的に同一な実験動物の複製、2. 品種として優れた家畜の複製と量産、3. 絶滅種の保存と繁殖、4. ES細胞の利用による医療・臓器移植、5. ミトコンドリアの欠陥に由来する遺伝病の克服、6. 不妊の場合の代替的出産、といった数多くの可能性を含んでいる。このうち、ヒトクローンの場合は4〜6がベネフィットになる。一方で、リスクとしてあげられるものは、1. 安全性が確保されていない、という一点のみ。残りは、ほとんどが自称「倫理」による感情論ばかりだ。正確な計算抜きでも、ベネフィットが圧倒的に上回ることは明らかだろう。なのに、心のどこかで、何かに納得できない自分がいる。

なぜだろう。あと3ヶ月、卒論を提出するまでには、結論のきっかけぐらいはできているだろうか。そう思いながら、今日も図書館でつらつらと本を読んでいる。

追記:
ぼくの紹介の仕方が悪かったせいで、『環境リスク論』の中西準子さんがずいぶん冷酷な人に思えてしまったかも知れませんが、そうだとしたら誤解です。お詫びの意味も込めて、中西さんの本から、中西さんがいちばん感情を込めて書いたと思われる部分を引用しておきますので、是非とも誤解のないようにお願いします。

「人の健康を保護するための環境対策を、ΔB/ΔR(リスクとベネフィットの比)の値を基準に選択しようというのが私の考えである。ΔB/ΔRは統計的に表現されたものではあるが、人の命の価値であるから、私の提案は人の命に無限の価値をおけないということを表現している。何故なのか?
 この社会に無限の資金(資本力、人力、エネルギー)がないからである。だからこそ、効率的に資金を使うには、優先順位を決める意味で、ΔB/ΔRに枠をはめる必要がでてくるのである。また、人の命を救うために多くの他の資源を使うと、別の環境問題をひきおこし、ある命を救うために別の命を生け贄にしているような状況が生まれるからである。さらにまた、資源や自然環境を今の世代に生きる人間の命を守るためだけに使い切ってしまうことができないからである。
 無限には命を追求できない場合があるからこそ、われわれは誰にでも分かる方法で、衆人環視の中でリスクを計算し、ベネフィットを計算し、ΔB/ΔRを明示しなければならないのである。
 (中略)
 さきに計算した値は、こういう条件下で計算された人の命の値段とも言い換えることができる。こういう計算に、拒否反応を示す人が多いことを、私はよく知っている。しかし、無限のお金をかけて人の命を救えないという現実を見たくないために、すでに被害が出てしまった水銀にだけはきれいごとの原理を適用し(危険性をゼロにする、無限の資金を使う)、その他の被害には目を向けないということでわが国の環境行政は進んできたのである。だからこそ、わが国では10とか20とかの化学物質しか規制されていないのである」(中西準子『環境リスク論』岩波書店、pp.119-24)

この文章を読んで何か感じるところがあったなら、ぜひ、本屋さんか図書館に行って中西さんの本を読んでみてください。みなさんの期待どおりか、それ以上の名著のはずです。

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廃人生活、はじめましょう

「ヒトクローンは倫理的に何か問題があるのか」というテーマで卒論の原案をつくろうと思い立ち、とりあえず話題になったNatureのドリー論文を読んだところ、専門用語だらけで半分くらいしかわからなかったので、(高校で生物を選択しなかったことを後悔しながら)クローン技術の入門書を2冊くらい読み、即席でわかった気になってから改めてドリー論文の後半に挑んだものの、実はそこは追試用の手順解説みたいなところでぼくには比較的どうでもよかったことが判明して Fuck! と口走りそうになったが、図書館だったので抑え、気を取り直して生命倫理系の本を漁ったら、岡本裕一朗さんが『異議あり!生命・環境倫理学』で書いてたとおり7割くらいの論者がヒトクローン賛成ないし条件付き賛成で、なんだよ意外とみんなマトモじゃねーか、ってゆーかここまで賛成派が多いんじゃ今さらオレが卒論で取り上げる意味なんてないのでは、と、くじけそうになったけど、よく読めば賛成派も一枚岩じゃないし、各論では「脳を除いたクローンを造れば、そいつには人格も人権もないから、臓器バンクとして使用しても何ら問題ない」みたいに形式倫理がいささか行き過ぎて納得できないこととか、「クローン反対派は男性中心主義の崩壊をおそれているのだ」みたいにブッ飛んだことを主張していらっしゃるので、そこを修正するなり斬り捨てるなりして、あとは論文の1〜2割くらいはオリジナルな意見も入れられたらいいな、とファンタジーしていたらいつの間にか40時間くらい起きっぱなしだった、こいつはいかん、と気合いを入れて仮眠をとったはいいが、気合いを入れすぎたせいか15時間くらい爆睡してしまって軽く鬱。こんなんで2日後の内定式は大丈夫なんだろうか。

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2005.05.18

どうして宗教学専攻?

ぼくの専攻は宗教学だ。が、これを言うと、3人のうち2人ぐらいは「どうしてまた宗教学?」と聞き返してくれる。ひとことで言うと「宗教が嫌いだから」なんだけど、こう答えると、わかったような、わからなかったような顔をされるので、ひとつ例を挙げておこう。たとえばこんなの。

「我々の究極目標は大いなる宇宙の霊性と一体化することである。この宇宙と自然は霊性にあふれた海であり、霊性の流れる大河である。なかでも地球は霊性がゆたかに循環する場所であり、地球全体が、あらゆる生命を有機的に統合したひとつの生命だといえる。しかし、近代文明と科学は合理的で分析的な思考を押し進めすぎたために、流れゆく霊性の循環をみだし、自然界のいたるところで不調和を発生させている。東洋思想やネイティブ・アメリカンの思想にならい、科学万能主義を反省するときが来ている。大いなる宇宙の霊性と一体化し、自然と調和しながら生きていくことこそ人間の本来あるべき姿だ。云々」

といったヴァカな思想をヴァカと見抜けるようになりたかったから、である。ちなみに、これは去年の卒論ゼミで発表した「新教団設立案」の「教義」から抜粋したもので、ここを読んでるときは笑いをこらえるのに必死だった。なんか、そのあと島薗先生とか鶴岡先生は(かなり笑いながら)マジメにアドバイスをくれるし、やっぱり宗教学専修を選んでよかったなーと思っている今日このごろ。楽しいしね。こういうの。

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